ノスタルジーを感じたい

日常的なことが中心。たまに詩などを書くときも

西行の生き方に学ぶ、思うように生きること

 

「ねがわくば 花のもとにて 春死なん その如月の 望月のころ」

 

西行(1118~1190)と言えばこの歌が思い浮かぶ。

この歌は西行が晩年に詠んだ歌で、後に歌のとおりに彼は春に没する。

 

前回にありのままとは何だろう。ありのままに生きるとは何だろうと書いたけれど、

私は、西行がまさにありのままに生きた人なのではないかと思う。

何故なら、彼は多くの苦悩に悩みながらも自由を求めて、心のおもむくままに生きたと思うからだ。

まずは簡単に西行についてまとめてみた。

 

 西行とは

西行は元永元年(1118年)に生まれた。俗名は佐藤義清(のりきよ)

義清は百足退治の伝説を持つ、藤原秀郷の末裔である武門の家に生まれた。

義清の家は衛府に代々仕えており、彼も18歳ごろから鳥羽院に北面の武士として仕えている。義清はこの頃から和歌や故実に通じ、武芸の腕前も抜群で将来を期待されていた。ちなみに同僚には平清盛がいる。

 

出家

義清は保延6年(1140年)23歳の時に出家して当初は円位と名乗り、後に西行と称した。

出家の理由は諸説あるが、主なものに以下の2つの説がある。

・親しかった友人が急死したことによる 無常感からという説

・さる高貴な女性との失恋が原因という説

 

 

放浪の人生

出家してからの西行は、全国各地をめぐりながら歌を詠み続ける生涯を送った。

西行は旅を続ける中で、源頼朝奥州藤原氏の当主、藤原秀衡とも対面しており、当時の主要な人物たちから一目置かれる存在だった。

しかし、その一方で出家をしたものの、どうも俗世への未練が断ち切れないことに苦悩していたようで、

「いつの間に 長き眠りの 夢さめて 驚くことの あらんとすらむ」

(いつになれば長い迷いから覚めて、全てに不動の心を持つ事が出来るのだろう)

「世の中を 捨てて捨てえぬ 心地して 都はなれぬ 我が身なりけり」

(世の中を捨てたつもりでいたのに、都の思い出が私の頭から離れない)

など、他にも多くの苦悩に満ちた歌を詠んでいる。

その人生で多くの歌を詠んだ西行であったが、文治6年(1190年)春に、冒頭の

「ねがわくば 花のもとにて 春死なん その如月の 望月のころ」の歌の通りに桜の木の下で73年の生涯に幕を閉じた。

有名な歌人として名声が高いが、当の西行本人は長く煩悩に苦しんでいたというのは二面性があって、そこが人間くさくて良いのかもしれない。また、そういう部分が彼の詠む歌に大きく作用して、独特の世界観が生まれたのではないだろうか。

 

西行の生き方

裕福な家に生まれ、北面の武士というエリートコースを捨てて、放浪の歌人として悩みながらも自分の思うように、ありのままに生きた人生は実に見事で、素直に憧れてしまう。

普通の人ならば、そこそこの社会的地位を得たらそれを手放したくない人が大半だと思う。

そんな地位や名誉に縛られずに自分の思うままに生きること。時には悩みながらも自分の生き方を貫き通すこと。

西行の生涯はそんな生き方の手本を示してくれているように思う。